私のダンスノート My Dance Notebook
 alex moore アレックス・ムーア




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アレックス・ムーアのオンライン博物館(3)  →(1)    (2)
ここでは、ムーア氏に関する記事をご紹介します。
詳細に読まれたい方は、文字が大きくなるウェブ・アルバムへお進みください。


Alex_Moore
ムーア氏の遺品は
(財)日本ボールルームダンス連盟
に展示されています。

 
 
Alex_Moore
 

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日本のダンス界に大きく寄与した彼の名は、
名著「ボールルーム・タンシング」や「タバイズド・テクニック」を通してのみならず,
1978年来日本で開催されている「アレックス・ムーア杯」としても愛され続けています。

彼が発行した “MLS(マンスリー・レター・サービス)” は、
1982年、ジェフリ-・ハーン氏とベギー・スペンサーMBEが共同創立した
ハーン&スベンサー社(現DSI社)に引き継がれ、
レター・サービス”と名を変えて2004年まで続き、
その後再び名を“コリオグラフアー”と変え、
2008年の廃刊になるまで世界中のタンサーに愛され続けました  ― 

英国から届いた遺品の中に「マンスリー・レター・サービス100号記念付録」が含まれており、
その中に奥様とお嬢様の記事を見つけました。
ここにお届けするのは、身内だからこそ語れる、そのお二人のお話しです。
  (翻訳協力:三枝祥子さん)
(Translation by Ms Shoko Saegusa)


アレックス・ムーアMBE   
1982年10月発行「レターサービス」第一号複写版より




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 アレックスが後の奥様となるパット・キルパトリックさんと出会ったのは、1932年のことでした。同年、彼はNATDの会長に選ばれ、その同日、ISTD(英国ダンス教師協会)のダンスボール支部委員会に仕えることになり、後にNATDの会長になるまでに至りました。また同年、南アフリカを訪れた際、現地講師からダンスに関する新しい情報を得ることが困難だ、という多くの不満の声を聴き、このことから創造力に富む彼のマンスリーレターサービスが生まれました。こうして、つつましく始められたレターサービスは、やがて世界中で読まれるようになり、日本語、中国語、イタリア語、ドイツ語に訳されました。

  1935年に出した彼の「Ballroom Dancing」は、今日までに25万部以上が売れています。そして、長年に渡り担当した英・マンチャスターで年一度行われた彼の技術講義には、毎年平均200人以上もの出席者が集まりました。

 1937年、パットさんと結婚して以降は継続的にデモンストレーションを行い、イギリス・オランダ・デンマーク・ノルウェイ・ドイツ・オーストリア・フランスその他の国での講演と会議への出席、またロンドンのアレキサンダーパレスにあるスタジオから、ダンスレッスンシリーズのTV番組に数年間出演していました。

  アレックスはデンマークを訪問する際のイギリスチームキャプテンを25年以上もの間任されていました。このデンマーク遠征は、彼にとって一番楽しいものでした。というのも、彼はツボルグ社からナイトの称号を授かっていたからです。また、ボールルームダンスの教師やダンサーの中で、もっとも活躍した人に贈られるカールアランアワードを受賞していますし、1947年にはISTDのダンスボール支部議長に選ばれました。

 1948年はブラックプールにてワールドコングレスが初めて行われた、ダンス界にとって重要な年でした。アレックスが世界ダンス議会ICBD(現在WD/DSC)の設立を提案したのもこの時でした。その後、多くの働きかけにより、彼が会長に選ばれてから約21年後の1951年、ついにスコットランドのエディンバラにて、ICBDが創設されました。

 1959年、アレックスは英国式ダンスを教えるため、プライベートで米国を訪れています。1960年、ICBDによる最初の教師認定試験が行われました。この時も、アレックスの創造力に富む才能が将来への可能性を見出しました。

 彼のマンスリーレターサービスは世の中に知れ渡り、1961年、多くの検討がなされたのち、公式に米国を視察することとなり、再びアレックスは米国を訪問します。成功に終わった数度の米国訪問は、後のISTDの米国支部設立へと繋がりました。

 1976年、アレックスはボールルーム界での功績を称えられ、エリザベス2世よりMBEを授与されました。こうした受勲は、ダンス界進歩のために人生を捧げた彼にとり、実にふさわしいものでした。

 アレックスの知られざる私的な一面について、奥様のパットさんとお嬢様のパトリシアさんに寄稿して頂いた記事をご覧ください。

                    奥様の記事
夫、アレックス・ムーアを語る
パット・ムーア (Pat Moore, nee Kilpatrick)

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 アレックスについてなら、本で読んでよくご存じだと思いますので、ここでは余り知られていない彼の思い出をご紹介したいと思います。もしかすると、アレックスがケチだった印象を与えてしまうかもしれません。実際、彼は倹約家でした。ですが、決して困っている友達を放ってはおくことはありませんでした。

 多くの方がご存知の通り、アレックスはもともと会計士でしたが、その後ボールルームダンスの方が会計士より5倍も稼げることを見出します。ダンス以外では中国の骨董品に思い入れが深く、海外での仕事で稀に、「報酬は中国の骨董品で」と申し出を受ける場合もありましたが、そうし時には二つ返事でOKしました。
 もちろん一定額以上のものをイギリスに持ちには輸入関税がかかります。ある時、今までで一番美しい骨董品がプレゼントされた時の話ですが、税関で止められた彼は、
  「税金だって? こんなものいらないよ。やるよ!」
と言いつつ税金を払わず、しかも品物を持ったまま立ち去ったのです。

 彼は、MBE受勲に感激していましたが、彼にとってはダンスのプロから贈られた4度のカールアラン賞の方がより意味深いものでした。

 アレックスが南アフリカで一年間仕事をしていた際、現地の教師から、「英国で開催されるボールルーム・イベントの最新情報を届けて欲しい」と頼まれたことをきっかけに、レターサービスのアイディアを思いつきます。そこで、その企画の反応を見るために宣伝してみたところ、すぐに、やっていけるだけの十分な希望者が集まりました。
 レターサービスを始めて以来、彼はただの一度も発行を休んだことがありませんでした。戦時中の話ですが、彼の父親はその頃具合が悪かったのですが、どう言う訳か「レターサービス製作時期」になると悪化し、それを口実に、アレックスは帰宅を許されていました。一年後、彼自身が足を痛めたため、傷病兵として免役されたのでした!

 私たちのハネムーンはブライトンで過ごしました。しかし、まさかアレックスが、ホテルを予約していなかったとは思いもしませんでした。
 4月で空き部屋はいくらでもある時期でしたが、運が悪いことに、大きなサッカーの試合と重なり、どのホテルも満室。結局彼は警察署に駆け込み、「助けてくれなければ僕らの結婚は、一日で破綻してしまう」と泣きついたのです ― その結果、それは素敵なハネムーンになりました ― 高齢者用宿泊施設で過ごしたのです。ハネムーンなどすっかり忘れ去っているような入居者たちからは大歓迎されましたが。

 アレックスは、一日にマッチを一本しか使わないほどのヘビースモーカーでした。一本目のタバコにつけると、次のタバコ、次のタバコへと火を絶やさないのです。
 私たちがデモで各地を回っていた頃、片道ずつ運転を交代し、運転しない人が2人のタバコに火を点ける係りでした。ある晩、タバコを切らし、小さなお店で200本ものタバコを買いました。そのお店には大きな注文でしょうに、戻ってきたアレックスは ― 「それで足りるのか?」と言われたと ― と困惑していました。
 無理もありません。アレックスの口には、今にも口に火がつきそうな位短くなったタバコを、2本くわえたままだったのですから!。
 70才になってから、それほど好きなタバコをアレックスは、アジア風邪にかかったのを機にやめると言い出しました。周りは笑って信じませんでしたが、それ以降、彼は一度もタバコを吸いませんでした。タバコが恋しいとも言いませんでした。彼の決心は本当だったのです!

 もともと私はバレエの訓練を受けていましたが、ボールルーム・ダンスはとてもリラノクス出来るし、すごく楽しかったので、時間のある時には踊っていました。 プロのバレエタンサーとして1シーズンを終えてみると、自分には体力的にも時間的にも過酷過きると分かりました。「そんな時ボールルーム・ダンスが私に手招きしたのです! 南アフリカでのホールルーム教師募集の広告を目にしたのです。さっそく応要すると、しばらくしてムーア氏のスタシオで(キングストン・アポン・テムズにある)彼の面接を受けて欲しいとの知らせが届きました。すぐに飛んで行ったわ!
 面接中、私は彼からあるお願いをされました。
「とても大事な用事が明日の夜に入ってしまったので、私のクラスを代わりに引き受けてくれないか?」
と言うのです。もちろん喜んで引き受けました。すると、さらにこう言ったのです。
「その用事に行くために、君の車を貸して欲しい」って。

 開いた口か塞がらない私を見て、彼は「イエス」と思ったみたい。

 次の日、私は受け持ったばかりの生徒たちと共に、自宅に帰るバスの中にいました。生徒たちはアレックスの素晴らしい人柄のことや、どんな風に自分に微笑みかけてくれたかなど、クスクス笑いながら話してくれました。なんとなく想像がつくでしょ? そして、そのバスの中で私は彼の「大事な用事」というのがスヌーカー(賭け玉突き)の試合だったと知ったのです。しかも、私の車で!? 私はバス?
 言うまでもなく、そこまでしてする、彼の熱意は到底理解できませんでした。でも、後日、アレックス流のお詫びとお礼の印に、私をサヴォイのディナーに誘ってくれました。結局私は南アフリカではなくキングストン・アポン・テムズに行ったのです。

 アレックスと私が一緒に競技会に出ていたというような記事をたくさん見かけますが、彼は私と出会うずっと前に競技選手をリタイアしていました。でも、私たちはデモンストレーターとして踊り、二人か良いコンビいうことを知りました。アレックスとのダンスは、まるで昔から踊っていたように自然でした。もっとも私と同じように感じて、私と同じくらい上手に踊れた女性はたくさんいたとは思いますが、なんと言っても私には、秘密兵器がありました -- アレックスと出会ったころ、彼はすでにレターサービスを始めていたので、間もなくして、私にロネオの複写機と指サノクとホノチキスの魅力を紹介してくれました。彼は私がロネオで発揮した才能、無駄のないホチキス技術、レター・サーヒスを折りたたんて封筒に入れる軽快なスピートに感激したのです。さらに彼は、指サックをはめた私の指が、世界中の誰の指よりも高速で用紙を処理するのを発見したのです。それで決まり - プロポーズしてきたの!

 アレックスとの話は尽きませんが、今回、思い出を振り返ることか出来、大変楽しかったです。

 ボールルーム・ダンスはアレックスの人生そのものでした。ボールルームとアレックスは、互いに素晴らしい影響を与え合いました。私たち女性は陶磁器の次でも、カードゲームの次でも、スヌーカーの次でも構わないわ!
                    お嬢様の記事
   父について
パット・ホープ (Pat Hope, nee Moore)



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Mrs. Pat Hope with her husband David explaining Mr. Moore's relics. Photo taken on Jan. 24th (Sun) 2010 when Kammoto visited them home.


 お父さんの背中には大きなホクロがあるの。

 読むのをやめないで。もう少し読んでもらえれば分かるから! でも大きくなってから、お父さんなら誰でも背中にもホクロがある訳じゃないと知ってショックだった — という話しなのですが、私にも似た経験がありました。

 全寮制の学校に入ってたくさんの「普通」の人たちと過ごすようになるまで、私は世の中のお父さんは、しょっちゅう、真っ昼間からイブニング・ドレス(夜会服)を着出して、夜のために出かけていくのだとか、月に1度はダイニング・テーブルで古いタイプライターをエンドレスに打ち続け、急に奥さんとリビングで踊ったかと思ったら、またタイプライターに戻る — そんなことが、ごく普通のことだと思っていました。
 それから、人々がツイストしたり、グルグル回ったりしてフロアで何時間も踊っている大きな所に小さな女の子が行くのも、お父さんがTVに映る日は、夜遅くまで起きていてもいいことも・・・。

 私の覚えている父は、月に一度タイプライターをバチバチ打っている印象で、あまり一緒に過ごした記憶はありません。確か、パスポートは有効期限がくる前にスタンプで一杯になってしまって、いつも2冊になっていました! いずれにせよ、月に一度のタイプライター打ちが終わると、世のお父さんは3日ほどいなくなるのが決まりでした。でも、そこからが本当の仕事の始まりだったのです。

 まず、キッチンは巨大な機械に占領され、そこから吐き出される何百枚もの印刷用紙紙は、これまた、リビングを占領している巨大な架台式テーブルの上に、8つの束に分けられて山積みされます。ここからが指サックをはめた母の魔法の指の出番です。8つの紙の山は何時間かすると、8枚のニュース・レターの巨大な山に変わるのです。私がテーブルに手が届くまで大きくなると、直ちにこの工程の一員に加わることを許可されました。この作業が終わると、8枚を整えてホチキス止めする作業が始まります。私は、生まれた時からこの作業をやっていたと言っても過言ではありません。

 失敗したホチキスの針は、後から父に見つからないよう、ゴミ箱の底に隠しました。折り畳まれたニュース・レターは、順次、椅子と椅子の間に綺麗に並べられ、クッションをよけたソファー・セットで圧縮するのですが、全てのニュース・レターが畳み終わった頃には、初めに折ったものが良い具合にペタンコになっていて、封筒に入れるのがとても楽でした。封し終わった物は国別に、決められた数毎に紐で束ね、郵便屋さんが来るまで廊下に並べておきます。そんな頃になると、父が帰ってくるのです! 
 でも、これを言っておかないと彼に対してフェアじゃないわね ― お手伝いに対するお小遣いを貰ってました。いくらだったかは覚えていませんが、5歳から18歳になるまで金額は変わらなかったわ! 

 彼は一度、授与したMBEを文字って、MBEの本当の意味は、
 「Mもう・B馬鹿にならないくらいの・Eエネルギーを消費する」
の事じゃないかと話していましたが、そのMBE殆どは、レターサービスの発送までを一人でやってのけた母の努力の賜物です。

 何年も後、私は月に一度発行されるチャリティー新聞を手掛けることになり、12年間続けましたが、どういう訳か母は、発行日になると遊びに来ませんでした。なぜかしら! 
 私が母よりも有利だったことと言えば、母の時代に使ったロネオの複写機がコピー機に変わった位じゃないいかしら。

 毎月、指サックをはめると、私は“完全に普通”だった子供時代に逆戻りしていました!

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