私のダンスノート My Dance Notebook


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私のダンス用語ノート

  拙書「「私のダンス用語ノート」にこの「人物」のページはありません。
ここでは、拙書に出てきた人物、翻訳本「モダン・ボールルーム・ダンシング」に出てきた人物、そして、個人的に調べた人物を何かの役に立てたいと思って一つにまとめています。また、妻がロンドンで習ったパトリック先生のことも入れましたが、ある意味このページは、彼への敬意を表したいという気持ちで作ったとも言えます。(神元)

 
     人物
アレックス・ムーア(Alex Moore 1901-1991) 
ISTDの議長、後に会長を務めました。ダンス界に貢献した人に与えられるカール・アラン賞を、英国王室からはMBEの称号を授与されています。近代ボールルーム・ダンシングのパイオニア、ダンサー、ダンス教師、ボールルーム・ダンシングの本の著者。その“ボールルーム・ダンシング”はボールルーム・ダンシングの“バイブル”と絶賛されています。moore
6才からダンスを始め、1923年プリンス・ギャラリーで行なわれた“ブルース”大会にお姉さん(もしかすると妹さん)と出場して好成績を残しました。1926年のワールド・チャンピオンシップで準優勝し、プロのダンサーとして注目を浴びていた一人でした。

1932年、後の奥様となるパット・キルパトリック(Pat Kilpatrick)さんとパートナーを組み、欧州諸国、北アメリカ、日本、オーストリア、南アフリカなど、世界中をデモや講義をしに周りました。MLSで知られた彼のマンスリー・レター・サービス(Monthly Letter Service)は1932年に発行され彼が亡くなるまで続きましたが、このレター・サービスの発行のきっかけとなったのは南アフリカへの旅行で、現地の教師たちが英国から隔離されているように感じていたこと、そして、世界のダンス事情を知りたがっていること、そうしたことをを肌で感じたからのようです。当時の交通事情や通信事情は現在とは全く違っていましたから。それで、踊りのヒントや大会のニュースを載せたレター・サービスを発行したのですが、これは数ヶ国語に翻訳され、40カ国で親しまれました。

ムーア氏はプロのダンサーとして優れていたのは当然ですが、教師としての才能は格別でした。キングストン・オン・テムズという地にある彼の教室(ジータ・ダンス・スタジオ)にはレッスンや教師試験を希望する教師たちが世界中から集まり、その模様を、エリザベス・ロメインさんは「ダンスの国連」と表現したようです。スタジオ“ジータ”の名は、近くにあったカフェの名前から取ったようです。きっと常連さんだったのでしょうね。

“ボールルーム・ダンシング”の初版は1936年に発行され、当時のISTDの教師試験に使われていました。世界中を回り、初心者を教える難しさを痛感していたようですから、“バイブル”はそうした経験から生み出されたのでしょう。ちなみにこの本の足形図にある升目は彼の考案です。それから12年後の1948年にリバイズド・テクニックが、1954年にポピュラー・バリエーションが出版されています。彼の優れたダンス分析能力、文章能力、チャートや足形図などの創意工夫能力が今日のダンスを築き上げたといっても過言ではないでしょう。このリバイズド・テクニックを基に変更を加えたものがボールルーム・テクニークでISTDから発行されています。
  • アレックス・ムーア氏は1991年の他界。奥様のパットさんも2006年に亡くなられたようです。
  • 私が放浪してロンドンにいたとき、ジータ・ダンス・スタジオの前を通ったことがあります。リバイズド・テクニックの話は知っていたので、『あの有名な先生のスタジオなんだね』と2人で話したことを覚えています。その放浪人が30年後に、彼の奥様、パットさんにお便りすることになるとは誰が想像できたでしょう! 『サークルで上達するボールルーム』の件で私が英国へ飛び、お嬢様にお会いした時、残念ながら奥様はご病気でお会いすることはできませんでした。謹んでご冥福をお祈り致します。 (2007年5月 神元)
  • このホームページのアレックス・ムーア博物館では、私が知る限りの彼の情報・写真・映像を紹介しています。(神元) 
 
以下二つの記事は、英国ISTDのウェブサイトに掲載されており、アメリカのUSISTD試験官のロリ・ウッズゲイさん(Lori Woods-Gay)が書かれたものです。注意して訳しましたが、誤訳がありましたらお許しください。(2007/06 神元)


   
アレックス・ムーア氏って誰? 
リバイズド・テクニックって何? 
何がリバイズド(改定)され、なぜ関心持つの?




 少しご年配でダンスの歴史をご存知の方にはごめんなさいね。でも、私より若い方がには(きっとほとんどの人よ)、この情報が役に立つことを願っています。

 アレックス・ムーア氏は1901生まれ。6才からダンスを始め、1926年のワールド・チャンピオンシップにお姉さんと(もしかすると妹さん)出場して準優勝。後の奥様となるパット・キルパトリックさん(Pat Kilpatrick)とは1932年にパートナーを組み、共に欧州諸国、北アメリカ、日本、オーストリア、南アフリカなど、世界中を回ってデモをしたり講義をしたりしました。彼はダンス界のパイオニアであり、ボールルーム・ダンシングの知識を本を通して、旅行しながら、また彼のISTD議長、ISTD会長、NATD会長としてのポストを通して、さらにはマンスリー・レター・サービスを通して世界に広めたのです。80年以上にもわたるキャリアの中で、インターナショナル・ダンスに対して行なわれた彼の貢献は驚くべきものがあります。

 彼は英国の、キングストン・オン・テムズにジータ・ダンス・スタジオと呼ばれる教室を持っていました。この名前は近くにあったカフェから付けられたものです。そこにはレッスンや教師試験を希望する教師たちが世界中から集まり、その模様を、エリザベス・ロメインさんは「ダンスの国連」と表現したようです。その模様は蓄音機と78枚のレコードから容易に想像できます。間違って落としたりすると、粉々になってしまうことでしょう。

 1932年、かれがパット・キルパトリックさんに出会った同じ年、MLSで知られたマンスリー・レター・サービス(Monthly Letter Service)はが発行されました。このレター・サービスの発行のきっかけとなったのは南アフリカへの旅行で、現地の教師たちが英国から隔離されているように感じていたこと、そして、世界のダンス事情を知りたがっている ―― とを肌で感じたからのようです。このMLSにはプロ試験へのガイドラインや、技術的な質問、そしてダンス大会のニュースが盛り込まれており、40カ国に発送され、様々な言語に翻訳されていました。彼が成しえたことは今日の基準で計っても偉大なことですが、その時代の通信技術や交通手段は今のものとは比較にならないものです。カール・アラン賞を受賞し、MBEも頂いています。アレックス・ムーア氏は1936年にボールルーム・ダンシングを出版していますが、どのような経過で出版されたのでしょう。ボールルーム・ダンシングはISTDの試験し使用されていましたが、現在でも出版されており、近年の改版は2002年、エリザベス・ロメインさんの手によって行なわれました。

 アレックスはボールルーム・ダンシングを教えるために世界中を回りましたが、当時の旅行は今とは違いますし、勿論マイレージ・サービスもありませんでした! 彼はダンスを習っている人たちが習ったことを思い出すために、チャートを考え出し、それを私たちが今日でも使用しているのです。彼は最高のダンサーたちの動きを観察し、それを書き下ろしたのでした。(そこにでている)フィガーは意図的に考え出したものではなく、ボールルーム・ダンシングが自然に進化していく中で発展したものです。私たちがコンピューター技術の恩恵をこうむる遥か以前、かれは4本の指を使いながらタイプに向かい、1948年に完成したのがボールルーム・ダンシングのリバイズド・テクニックでした。この本の最も賢明な点は、持ち運びに便利なようにと配慮して作られた点です。当時は、誰もが車を所有していたわけではなく、旅行といえば主にバスか列車でしたから、軽くてコンパクトなものが必要だったのです。今日においてさえ、彼の考え方は非常に正しく、手元に置いておくにも大変便利です。リバイズド・テクニックには膨大な基本情報が含まれており簡単に調べることができます。教育を受けた完成されたダンサーであれば誰しもボールルーム・ダンシングのような分厚い技術本を書き上げることができるでしょうが、リバイズド・テクニックの特徴はその簡潔で便利な形式にあります。

 誰一人として「この本を全部覚えると素晴らしいダンサーになれます」とは言わなかったと確信していますし、最低、そう願いたいところです。リバイズド・テクニックは偉大なる本ですが、それは決して先生の代わりをするために書かれたものではありません。アレックスのリバイズド・テクニックのオリジナルには、先行と後続の後で「でも、余り良くない」と記述されているところがあります。私が教師として未熟だった頃はいちいちそんなことを書かなくても良いのではないかと思ったものです。しかし今では、彼が人間がそうしたつながりで踊りたがる本質的なものを見抜いた上で、それでも踊りとしては良くない事、音楽に乗って踊らなければいけないこと、リードとフォローのし易さなどを考慮した上で書き記したことが、そして彼の賢明さがわかるようになりました。今度あなたがその本を開く時、1948年当時、手動タイプライターの前に座り、タイプミスをしないように気をつけながら書き上げた彼の姿を思い描いてください。手動タイプライターでのミスは修正に時間を費やし、大変だったのです。リバイズド・テクニックの一貫した形式と技術用語の驚くべき点は、1993年での改定でも、改定されたのはほんの少ししかなかったことです。今日の踊りは色々な形で発展し美しく作り上げられてきましたが、そうしたものの原型がそこに書き記されているのです。1993年、リバイズド・テクニックを基にボールルーム・テクニックと名づけられた灰色の本がISTDの技術本として認められ、ISTDのボールルーム部門で改定が行なわれてきています。

 私がアレックス・ムーア氏に興味を抱いたのは長年ダンスのレッスンを受け、勉強し、そして私の師であり、アドバイザーであり、友人でもあったエリザベス・ロメインさんとの20年を超える交流の中から生まれました。エリザベスはISTDの試験官で、ダンスの技術に関して素晴らしい知識を持っています。試験を受けようとする者に対して行なう彼女の試験準備トレーニング方法が優れているため、彼女の名は世界中に知れ渡りました。無数のトレーニングした人々の中にはトップの競技選手や世界チャンピオンもいます。彼女には素晴らしい踏暦がありますが、彼女が第2次大戦中にボールルーム・ダンシングに興味を示す以前には、バレーやタップダンス、そして喜歌劇の先生をしていました。国内外から様々な賞を受けていますが、1990年にはインペリアル・アウォード(帝国賞/恩賜賞)を授与されています。長年、ジータ・ダンス・スタジオで学び、働き、アレックス・ムーア氏が1991年に亡くなった後も奥様のパット・ムーア氏さんとお嬢様のパット・ホープさんと友好を続けていましたが。ごく最近、奥様も亡くなられました。ご両親が他界されたことでお嬢様は、ご両親のフラットに残されたものをどうしたらよいか心配されましたが、歴史として残していくことが重要だと考え、ほとんどを私が管理させていいただきたいと申し出ました。これがきっかけで、皆さんとアレックス・ムーア氏のことを分かち合いたく、このタイミングで記事を書かせていただいた次第です。

 この3月にお嬢様にお会いする機会を得ました。私は彼女のお父様を素晴らしく尊敬しているので、どうしてもそのことをお伝えしたかったのです。私自身の人生に、そして多くのダンサーの人生に衝撃を与えたことをお話したかったのです。個人的にアレックス・ムーア氏にお会いすることはありませんでしたが (私が彼のスタジオに出入りするようになったのは彼が交通事故に遭った直後の1989年のことです。かれは道路横断中に車にはねられ重傷を負ったのでした)、エリザベスさんと過ごしたことで彼の価値を知り、彼の信念を知り、お慕いするようになったのです。(おわり)



  アンダーソン/G.K.アンダーソン(G. Kenneth. Anderson)
1920年フォックストロットのオープン競技会が開催され、当時全く無名だったカップル、ミス・ジョセフィン・ブラッドリーとミスター・G.K.アンダーソンに素晴らしい賞が審査員から与えられました。二人が用いたステップは大変シンプルなもので、ウォーク、スリー・ステップ、クロス・ビハインドとサイド・ステップで、サイド・ステップはLODに対し45度に使い、足をゆっくりドラッグし、チェンジ・オブ・ディレクションに良く似ていました。二人は第1回‘アイボリー・クロス全英選手権’でも引き続き成功を収めました。 
「モダン・ボールルーム・ダンシング(ビクター・シルベスター著より)」
  カミール・デ・ライナル(Camille de Rhynal)
振付師、ダンサー、作曲家であり、大ビジネスの嗅覚も優れていました。ヨーロッパで知られている最初のダンス競技会は1907年、ライナル氏がニースで開催したタンゴ・トーナメント。ニースの成功に勇気づけられ、1909年パリにて第1回ワールド・チャンピオンシップを開催。現在のものとの比較はできないものの、大変興味深いです。(http://www.danceuniverse.co.kr)
  カルロス・クルズ(Carlos Cruz)
1923年のダンシング・タイムズに彼の書いた「ロンドンダンス事情」の記事が掲載された。1925年、「モダン・ボールルーム・タンゴ」を出版。
 (http://tango.club.fr/bibli_f.htm)
   キャルロ・ブラシス(Carlo Blasis 1795~1878)
イタリア生まれ。フランスでバレエのレッスンを受けた。1820年、クラッシック・バレエの技術を編纂した。振付師、理論家としてその名を残す。 
  サントス・カサニ(Santos Casani)
ロンドンはオクスフォード・ストリートを走っているタクシーの上でパートナーとチャールストンを踊り、センセーションを起こしました。リージェント・ストリートに大きな学校も作り、どんな状況下でも最大の宣伝効果を得る賢い実業家でした。(http://www.dance-news.co.uk)
  シリル・ビューモント(Cyril Beaumont)
世界的に名高いダンス歴史家。 
  ジャン・バティスト・リュリ(Jean-Baptiste [de] Lully 1632-1687)
フランスのオペラを確立した作曲家。 
ジョージ・エドワーズ(George Edwardes 1855-1915)
ミュージカル・プロデューサーとして実に多くの作品を残し、英国ミュージカル・コメディの牽引役。作品タイトルには通常‘ガール’の言葉が入っており、「ショップ・ガール」、「ゲイシャ」、「ザ・ガール・フロム・ユタ」などがある。
 (http://www/musicals101.com)
  ジョージ・グロースミス(George Grossmith)
1910年頃、パリ人のダンス・インストラクター、カミール・デ・ライナルはタンゴの隠し立てのない性的表現に変更を加えた。1916年頃ロンドンでは、グロースミスとデアの英国人ダンスチームが新しい形のタンゴを、ヒット・ミュージカルの“サンシャイン・ガール”で披露。一夜にして、ヨーロッパ全土はタンゴで埋もれました。
( http://nfo.net/usa/tango.html) 
  ジョセフィン・ブラッドリー(Josephine Bradley 1893-1985)
生前、人々は彼女を親しみを込めて”ファースト・レディ”と呼んでいました。ジョー、こと、ジョセフィン、ビクター・シルベスター、そしてフィリス・ヘイラーの3名は英国スタイルのボールルーム・ダンシングを築いた重要人物として認識されています。小さい時からピアノやバレエを習っていましたが、後にダンスと出会い、深くはまってしまいます。彼女のパートナーとなったアメリカ人のアンダーソン(G.Kenneth Anderson)とは、フォックストロットで名を馳せ、彼女は「フォックストロットの女王」の異名をとりました。当時のフォックストロットには特定のフィガーがあった訳ではなく、基本的にはマシーシ、タンゴ、ワン・ステップやキャッスル・ウォークなどからのステップを応用していました。

二人はフェザー・ステップの考案者として知られています。これは、アンディがスリー・ステップを踊る際に、ちょっとしたひねりを加えてアウトサイドに出たことから始まりました。それを踊った時、ジョーは「あら、いい感じね!」と思ったそうです。1924年、ロンドンのナイツブリッジに教室を開きました。この年はISTDの委員会も設立され、この年から1947年まで議長を務めました。(Ballroom Icons)

(写真は左からフィリス・ヘイラー、グウェン・シルベスター(ビクター・シルベスターの妹)、ジョセフィン・ブラッドリー)


(2012/07/15) 
最近ビクター・シルベスター、マクスウェル・スチュワート同様に、ジョセフィン・ブラッドリーもオーケストラを持っていたこと知りました。彼女のオーケストラの事は "Ballroom Icon" にも書かれていないのでうれしい驚きでした。当時の音楽をYouTubeで見つけましたので、興味のある方はここをクリックしてください。YouTubeで探すと、この曲以外にも数曲見つけることができます。(神元)

彼女は自分の日記をビル&ボビー・アービンに遺したということが書籍「ビル&ボビー・アービンのダンス・テクニック」(原書名アービン・レガシー)第12章に書かれています。(神元)
  チャールズ・コクラン(Charles B. Cochran 1872-195)
プロデューサー。多くの卓越したミュージカル・コメディアンを見出し、プロモートした。
(http://www.musicals101.com) 
  チャビー・チェッカー(Chubby Checker)
60年代に新種のダンス、"ツイスト"を世界中で流行らせた張本人。ブームの火点け役となった「The Twist」(60年)を始め、「Let's Twist Again」「Twistin' USA」「Slow Twistin'」などなど、ヒット作はほとんど"ツイスト"尽くし。ツイスト物の映画も2本撮っているというから、いかにその人気が凄まじかったか想像できるだろう。(http://music.goo.ne.jp/artist/)
  ハリー・フォックス(Harry Fox)
1882年5月25日生、1959年7月20日死去。カリフォルニアの劇場ダンサー、かつ、コメディアン。彼の名を最も有名にしたのはダンスのフォックストロットで、1914年に出版された「ダンス狂(F.L.クレンデネン著)」には「フォックス氏が踊った “フォックストロット” と記載されている。ハリー・フォックスはポピュラーソングを幾つか歌い、無声映画にも登場。初期の音の出る映画 “ハリー・フォックスと彼のアメリカ美人たち” などに出演しました。 ➡《192》 
  バーバラ・マイルズ(Barbara Miles) ➡《マクスウェル・スチュワート》
  パット・キルパトリック(Pat Kilpatrick)  ➡《アレックス・ムーア》
  パット・サイクス(Pat Sykes) ➡《マクスウェル・スチュワート》
  ビクター・マルボロー・シルベスター
(Victor Marlborough Silvester 1900/2/25 ー 1978/8/14)

 英国生まれ。ダンサー、作曲家、指揮者。1922年第1回世界スタンダード・ボールルーム・ダンス選手権チャンピオン。ストリクト・テンポ(標準テンポ)の音楽を生み出し、1930年代から80年代にかけて7,500万枚のレコードを売り上げ、彼の音楽は世界中で流れました。ISTD創立メンバーの一人で、当時の様子は『モダン・ボールルーム・ダンシング(ビクター・シルベスター著)』に書かれています。

 英国ミドルセックス、ウェンブレーの教区牧師の次男として生まれ、14歳の時に家出し、18歳と偽って第1次世界大戦中の英国陸軍に志願。2年間フランスで実務に着いた後、1917年にイタリアで負傷。この時始めて彼の実年齢がわかってしまいました。復員後、子供の頃からピアノの個人レッスンを受けていたので、トリニティ・カレッジで音楽の勉強をしましたが、じきに彼の興味はダンスへ移行し、ハロッズのジョージアン・レストランでダンス・パートナーを務める仕事につきました。1922年12月22日に開かれた第1回世界スタンダード・ボールルーム・ダンス選手権で優勝を果しました。その時のパートナーはフィリス・クラーク(Phyllis Clarke)さんでしたが、それはドロシー・ニュートン(Dorothy Newton)さんと結婚して数日後の事でした。この選手権には1924年にも出場しましたが、その時はダブル・リバース・スピンの発案者で知られているマクスウェル・スチュワート、バーバラ・マイル組に破れ準優勝でした。

 1922年に優勝した翌年、二人の初めての教室を開き、1926年にはボンド・ストリートの彼らの住まいに教室を移しました。そこには1936年に戦争が勃発するまで住んでいました。1930年代、彼の教え方は有名になり、当時の有名人でもトップの人たちを幾人か教えましたが、とりわけ有名だったのが、アカデミー賞にもノミネートされた女優メルル・オベロン(Merle Oberon)です。

 彼はISTD(英国ダンス教師協会)の創立メンバーで、ボールルーム・ダンス、すなわちインターナショナル・スタイルの理論と実践を成文化しました。1928年に出版した「モダン・ボールルーム・ダンシング」は瞬く間にベストセラーとなり、増刷、改定を何度も繰り返し今日に至っています。最新版は2005年に発行されています(翻訳版が白夜書房から出ています)。 彼はダンスに適した音楽が少ないことに不満を抱き、1935年に5人構成のバンドを結成(後のビクター・シルベスター・ボールルーム・オーケストラ)、ISTDが推奨した演奏テンポに固執しました。「ストリクト・テンポ(標準テンポ)」とは彼がつけた言葉です。そのバンドが最初にリリースしたレコード、「ユー・アー・ダンシング・オン・マイ・ハート」はオーケストラのテーマソングとなり、「スロー・スロー・クイック・クイック・スロー」は彼のキャッチフレーズとなりました。彼の音楽には独特のサウンドがあり、それは通常ではない楽器の構成 ―― 2台のピアノ ―― を使っていたからです。1台はメロディーに、もう一台はバックでずっと低音部の演奏を続け、シルベスターはこれを「レモネード」と呼んでいました。(他にも色々特色があり、また個々のプレーヤーも当時の有名人だったようですが、ここでは省略します)。

 自叙伝を出版した1958年までには英国の音楽歴史上、最も成功したダンスバンド・リーダーとして、および英国のラジオとテレビの大物俳優として知られていました。彼のBBCテレビ番組「ダンシング・クラブ」は1949年から1964年まで続き、さらに、1948年から1975年にわたりBBCの海外向け放送(後のワールド・サービス)では毎週、リクエスト番組を持っていました。

 1978年8月14日、避暑先の南フランスで海水浴中に亡くなりました。78歳でした。当時のタイムズ紙の死亡欄には次のように書かれていました ―― 「ファマグスタ(キプロス東部)、ケープタウン(南ア)あるいは北京でラジオをつけてください。そうすれば、彼の音楽が流れてくるでしょう」。

 1961年に「ダンス界に貢献した」としてOBE(Order of the British Empire 大英勲章第四位)を与えられています。1953年、1954年、そして1956年にはカール・アラン賞を受賞し、4度目のカール・アラン受賞は彼が亡くなった後、ご子息に渡されました。   


=参照文献=
・DANSON RECORDS DS052  “SIXTY YEARS ON”(1982)のLPジャケット
・Victor Silvester's 'BBC Dancing Club' by ritsonvaljos  
・MODERN BALLROOM DANCING  
・Wikipedia 2007年8月7日時点 
*LPとWikipediaで異なる情報が出たところは、LPの内容を優先しました。


 
  フランク・フォード(Frank Ford)
1922-1929年の間、ジョセフィン・ブレイドリーとデモをし、スロー・フォックストロットのベーシック・フィガーの開発を行ないました。そうした技術を用い、モリー・スペイン(Molly Spain)と出場した1927年のスター選手権に優勝。彼が使ったフィガーの多くは今日の競技会でも使用されています。 (http://www.danceuniverse.co.kr/) 
  マクスウェル・スチュワート(Maxwell Stewart)
ダブル・リバース・スピンの発案者。1922年から始まったワールド・ダンシング・チャンピオンシップにおいて1924年、1925年と優勝。この時のパートナーはミス・バーバラ・マイルズ(Barbara Miles)。1926年はミス・パット・サイクス(Pat Sykes)をパートナーに三度優勝。1回目の優勝者はビクター・シルベスターでパートナーはミス・フィリス・クラークとなっています。 

       M.Stewart  M. Stewart

彼もシルベスター同様に楽団を持っていたようです。下のサイトにアクセスすると、彼の楽団の演奏に合わせ、簡単なクイックステップを踏む彼の姿が見られます。また無声になりますが、同じサイトで、1925年優勝直後に撮影されたワルツ(現在のよりかなり速いテンポ)やチャールストンを取り入れたフォックストロット(今のクイックステップ)、やフォックストロットも見る事ができます。当時のダブル・リバース・スピンがみられます。
(http://www.itnarchive.com/britishpathe/)
 
  マーク・ペルギニ(Mark Perugini)
「ダンスとバレエの野外劇(Pageant of the Dance and Ballet)」の著者。1935年初版発行。
  モリー・スペイン(Molly Spain) ➡《フランク・フォード》 
   P.J.S リチャードソン(P.J.S. Richardson)
ダンシング・タイムズの編集者。
  レオナルド・パトリック (Leonard Patric)
妻のダンスの原点となる英国での先生を紹介します。

妻の恩師パトリック先生が1986年9月13に他界されました。私たちが帰国したのが1975年春の事――本当にお会いする機会を失ってしまったことが心残りでなりません。訃報は “ポッターさん” という方がパトリック先生の遺品の中から私たちの事を知ったらしく、全く知らない私たちに親切にも手紙をくださったのです。
パトリック先生と久子
後日郵送されてきた雑誌「ダンスジャーナル」には、彼女の回想録が掲載されていましたので、私たちが尊敬する先生の事を少しでも皆さんに知って頂きたいと思い翻訳してみました――ポッターさんの記事を読みながら、私は、レッスンが良く分からないといって泣きながら帰ってきた妻の事や、私たちの帰国が近づくにつれ寂しさを増した先生の顔を思い出しました。(神元)

(写真は帰国前、感謝の気持ちを込めてパトリック先生をロンドン市内の日本食にお連れした時のものです)



「ダンスジャーナル」より
 レン
(レオナルドの愛称)は発病後まもなくロンドン市内のウェストミンスター病院にて9月13日に亡くなりました。痛みを表に出さない人で、亡くなる4週間前までスタジオ188(ハマースミスにあるフィリス・ヘイラー女史の教室。番地名だけで分かるほど有名だった)で働いていたのですから、彼の死は親しい者にとっても大変な驚きでした。

 13歳のとき兄妹と行ったパーティーで初めてダンスを踊った彼は瞬く間にベーシックを覚え、教室に通い始めることになります。努力家で、勘もよく、天性のリズム感のよさもあり、やがて地区大会で優勝を重ねるようになりました。その才能は一流の先生に認められ、やがてロンドン市内で教える傍ら上級指導を仰ぐことになります。



 戦時中は英国空軍に従事し、復員後再びダンスの道を歩みます。1950年、ケンジントンのヘイラー女史の元に加わり、第一男性補佐役として働き始めました。ドリーン・キイ(Doreen Key)とパートナーを組むのはそれから3年後の1953年の事です。この二人の組み合わせはラテンダンスにPatric_Doreenおけるあらゆる「素晴らしいもの」を意味する言葉同然となります。主要なインターナショナル・プロ・ラテンアメリカンのタイトルを殆ど獲得し、その中には1959年の世界選手権も含まれていますし1962年にはデュアル・オブ・ザ・ジャイアンツ(巨人の決闘)でも勝利を収めています。

 たとえ一歩の事でも納得するまで何時間でも練習する完全主義者でした。自分たちのルーティンは全て自分で創るという優れた振り付けの才能を持っていました。休暇は主にスペインで過ごし、闘牛見物やスペイン舞踏にふけたりすることが多かったのですが、この二つが新しいバリエーションや優雅さと気品溢れる本物の動きの踊りを生み出したのでしょう。特にパソに才能を示し完璧に自分の物としていました。サンバにも定評があり、サンバ・ロールといえば「彼」というほどでした。他にもドリーンの為に自ら素材を選んで競技ドレスをデザインしたりもする、芸術的才能の持ち主でもありました。

 1954年3月17日、英国プロ・ラテンアメリカン選手権にて勝利を収めてから6月までの間、立て続けに3つものタイトルを獲得し、ラテンの世界を制覇した二人ですが、モダンも非常に得意で、エイト(8種目)やナイン(9種目)ダンス競技でも好成績を残しました。数多くの国際大会に英国代表として参加した二人はヨーロッパで大人気でした。国内外の競技にデモ、そして指導と広範囲に活躍した彼らの経歴には次のようなことも含まれています――

 ●クイーン・エリザベス号を含むあらゆる客船でダンスの指導とデモをし、1964年にはカロニア号で3ヶ月にも及ぶ長旅をしています。 
 ●BBCのシルベスター・ダンシング・クラブやATVのメロディ・ダンスに頻繁に出演。
 ●1962年クリスマスにはバッキンガム宮殿にて女王陛下とフィリップ後退にパソ・ドブレを披露。お二方にご紹介授かる誉も戴いております。
Patric _Doreen
 現役の日々はやがて遠ざかりますがハマースミス教室での彼の指導は続きます。マーディ・クラブ
(教室で火曜日に開かれていた定期的な仲間の集まりを指すのではないかと思う)や土曜の夜のパーティーなどでカウンターの中から飲み物をサーブしつつ冗談を言い、気の利いた話をする彼の周りには人がたくさん集まりました。彼の教え子の中には彼をダンスの先生としてのみならず、人生の師と仰ぐ人も多く、そうした人々と生涯のお付き合いをしていました。気性の短いところはあったものの、繊細で、温和で、親切で、そして自分の好きなように人生を歩んだ人でもありました。そんな彼が病院で治療事故の犠牲となったのは1980年の事。3ヶ月の入院期間中必死に戦いますが、元の体には戻りませんでした。

 ダンス以外にはテニスが趣味でした。ウィンブルドン大会には必ずと言っていいほど出かけ、プロの試合を熱心に観戦していました。 しかしどちらかといえば自らプレーする方を好み、陽の光や新鮮な空気を満喫していましたが、懸命に上達を目指した点ではフロアーの上と全く同じでした。亡くなる4週間前のテニスが彼の最後のゲームになってしまいました。

 多才で、賢く、愉快な人だったレンは人生を愛し、こよなく人を愛した人でした。笑うことが大好きな、魅力一杯の人でした。読者のあなたには、きっと、あなただけの思い出があることでしょう。 (D.E.ポッター)

 

恩師レオナルド・パトリック氏のことば (神元久子)
ロンドン、ハマースミス188(フィリス・ヘイラーズ・スクール・オヴ・ダンスィング)-そこで2年半教えを受けたパトリック先生は、当時50代半ばくらいでした。元ラテン・ワールド・チャンピオンにも拘らず、マンツーマンのレッスンをなさっていました。イギリスのダンス界でも少し風変わりな方ということは、外人の私にも教室内の雰囲気から伝わってきたくらいです。人種の偏見もなく、日本人の生徒を熱心にご指導くださったのは本当に有難い事でした。

ダンスになると、ご自身にも非常に厳しく、“今はダイエット中なんだ” とか片足トウでしっかり高くバランスを取る練習やスピンの練習をなさりながら、満足が行かないと“ノー・グッド”と言い、首を横に振ったり、ということもありました。それでも街中を歩く後ろ姿は、白い髪以外はまるで若者のようでした。当時、若くしていろいろ悩みの多い私に、
   “人間やらなければならない時はやらなければならない” 
   “何かことを成そうとしたら、他の何かを諦めなければならない”と。
私の帰国で淋しくなるといいつつ 
   “セ・ラビ(それが人生なんだ)” 
と、もらしたり・・・・ 今でも事ある毎に思い出す先生のことばです。


私にとってパトリック先生はダンスのみならず、人生の師になりました。


   
     



 
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