December 5, 2011  
     ちょこっと講座
#021 ビクター・シルベスター
 
 
社交ダンスをする人は知っておいて欲しい人の名前の一人がビクター・シルベスターです。

なぜなら、私たちが踊っているダンス音楽の、標準テンポの生みの親だからです。

彼の名を「モダン・ボールルーム・ダンシング」(世界で60万部の販売実績があると言われる名著。翻訳本が白夜書房から出ています)で知った方も多いと思いますが、彼はダンサーであり、作曲家であり、指揮者であり、そして、なによりも私たちのダンスに不可欠なストリクト・テンポ(標準テンポ)の生みの親なのです。彼が率いたバンドのレコード売り上げは、1930年代から80年代にかけて7500万枚を記録し、彼の音楽は世界中で流れ、愛されました。

2011年10月に出版された、ビル&ボビー・アービンのダンス・テクニック」(原書名:アービン・レガシー)のP146の「ワルツの歴史」の項で彼のことが、そしてP155には写真が載っていますが、このことからも、ダンスのことを語る際には欠かせない人物と言うことが分かると思います。

彼は1922年に開かれた「世界第1回モダン・ボールルーム・ダンス選手権」の優勝者ですが、その時のパートナーであったフィリス・クラーク(Phyllis Clark)と踊っているタンゴの映像(サイレント)をご覧ください。初期のタンゴはアルゼンチン・タンゴの影響が大きいことがよく分かりますし、現在使われているフィガーも登場し、興味深いです。

彼のことをより詳しく知りたい人がいましたら、映像の下に私が調べてきたことを掲載していますので、ご覧になってください。拙書「私のダンス用語ノート」にもビクター・シルベスターの経歴を載せていますが、それはこの一部です。


 
ビクター・マルボロー・シルベスター
(Victor Marlborough Silvester)
( 25 February 1900 〜 14 August 1978 英国生まれ)

英国ミドルセックス、ウェンブレーの教区牧師の次男として生まれ、14歳の時に家出し、年齢を18歳と偽って第1次世界大戦中の英国陸軍に志願。2年間フランスで実務に着いた後、1917年にイタリアで負傷。この時始めて彼の実年齢が分かってしまいました。復員後、子供の頃からピアノの個人レッスンを受けていたので、トリニティ・カレッジで音楽の勉強をしましたが、じきに彼の興味はダンスへ移行し、ハロッズのジョージアン・レストランでダンス・パートナーを務める仕事につきました。

1922年12月22日に開かれた第1回世界スタンダード・ボールルーム・ダンス選手権で優勝。その時のパートナーはフィリス・クラーク(Phyllis Clarke)さんでしたが、それはドロシー・ニュートン(Dorothy Newton)さんと結婚して数日後の事でした。この選手権には1924年にも出場しましたが、その時はダブル・リバース・スピンの発案者で知られているマクスウェル・スチュワート、バーバラ・マイル組に破れ準優勝でした。

1922年に優勝した翌年、初めての教室を開き、1926年にボンド・ストリートの彼らの住まいに教室を移しました。そこには1936年に戦争が勃発するまで住んでいました。1930年代、彼の教え方は有名になり、当時の有名人でもトップの人たちを幾人か教えましたが、とりわけ有名だったのが、アカデミー賞にもノミネートされた女優メルル・オベロン(Merle Oberon)です。

彼はISTD(英国ダンス教師協会)の創立メンバーで、ボールルーム・ダンス、すなわちインターナショナル・スタイルの理論と実践を成文化しました。1928年に出版した「モダン・ボールルーム・ダンシング」は瞬く間にベストセラーになり、増刷、改定を何度も繰り返し今日に至っています。最新版は2005年に発行されています(翻訳版が白夜書房から出ています)。

彼はダンスに適した音楽がないことに不満を抱き、1935年に5人構成のバンドを結成し(後のビクター・シルベスター・ボールルーム・オーケストラ)、ISTDが推奨した演奏テンポに固執しました。「ストリクト・テンポ(標準テンポ)」は彼がつけた言葉です。そのバンドが最初にリリースしたレコード、「ユー・アー・ダンシング・オン・マイ・ハート」はオーケストラのテーマソングとなり、「スロー・スロー・クイック・クイック・スロー」は彼のキャッチフレーズとなりました。

彼の音楽には独特のサウンドがあり、それは通常ではない楽器の構成 ―― 2台のピアノ ―― を使っていたからです。1台はメロディーに、もう一台はバックで、ずっと低音部の演奏を続ける役です。シルベスターはこれを「レモネード」と呼んでいました(他にも色々特色があり、また個々のプレーヤーも当時の有名人だったようですが、ここでは省略します)。 

自叙伝を出版した1958年までには英国の音楽歴史上、最も成功したダンスバンド・リーダーとして、および英国のラジオとテレビの大物俳優として知られていました。彼のBBCテレビ番組「ダンシング・クラブ」は1949年から1964年まで続き、さらに、1948から1975に渡りBBCの海外向け放送(後のワールド・サービス)では毎週、リクエスト番組を持っていました。オーケストラは1990年代まで彼の息子の指導のもとに残りました。

彼は1978年8月14日、避暑先の南フランスで海水浴中に亡くなりました。78歳でした。当時のタイムズ紙の死亡欄には次のように書かれていました ―― 「ファマグスタ(キプロス東部)、ケープタウン(南ア)あるいは北京でラジオをつけてください。そうすれば、彼の音楽が流れてくるでしょう」。

1961年に「ダンス界に貢献した」としてOBE(Order of the British Empire大英勲章第四位)を与えられています。1953年、1954年、そして1956年にはカール・アラン賞を受賞し、4つ目のカール・アラン賞は彼が亡くなった後、ご子息に渡されました。

参照文献
*DANSON RECORDS DS052  “SIXTY YEARS ON”(1982)のLPジャケットにある略歴。
*Victor Silvester's 'BBC Dancing Club' by ritsonvaljos
*MODERN BALLROOM DANCING

 
  ハッピー・ダンシング! Makoto Kammoto